今年の秋アニメで何となくタイトルだけは目に付いていた『チ。 ―地球の運動について―』ですが、ふと予告編を目にする機会があり、テーマに惹かれて原作の漫画全8巻を一気読みした。そしてこの作品のメッセージ性に、強く強く惹かれた。
アニメは現在放送中で、どのように物語が(原作に沿うにせよ)進んでいくかはこれからであるけれど、原作を読み切った熱量が失われないうちに、思いついたことを書き連ねておこうと思う。
なお全巻を読んでの感想のため、物語の中身そのものには深く触れてはいないけど、絶対にネタバレしたくないという方はご注意を。
自分も仕事・在野の両方で研究に関わっていている身なので、何よりも、新しい知見・アイディア・ものの見方が手に入りそうという予感を感じたときの、そのわくわくそわそわした感覚や好奇心が、一番たまらなく興奮する。
それが社会的に何の役に立つなどそんなことはどうでも良いし、そんなことで身を縛られるなど最低最悪でクソであると思う。
本作は、この好奇心というものの強さをリアルに描いていて鳥肌が立つ。
本作3巻には、当時の中世ヨーロッパでは研究者として名を残すことができなかったであろう女性ヨレンタが、地動説の確立に貢献した一人として登場する。
私がこの作品を通じて最も好きな言葉は、このヨレンタが地動説をめぐる設問に初めて触れたときの、この言葉である。
でも悪いとかどうでもいいから、アレの答えが気になる。
–『チ。 ―地球の運動について―』第3巻
アレとは、地動説を解き明かすために必要な惑星軌道に関して記述された設問である。
何かの・誰かの役に立つとか、自分の名誉や地位のためとか、そんなことから無関係だけど、知りたくて知りたくて、他の何もかもを放り投げて謎に取り憑かれること、ありませんか。…ないですか。
……まあともかく、ここまでにリアルすぎるくらいに、言葉で、表情で、研究者心理を表現しているのはすさまじい。これを人は衝動とか憑依とかいろんな表現をするけれども、私は「呪い」だと思う。
一度目にしたら解き明かさずにはいられない、強い強い呪い。
「呪い」と表現したけど、一生を捧げるくらいの謎に出会えた人生は、たとえそのために多くの苦難があったとしても、幸せなものだろう。その謎のどこか一部分まででも解き明かして後世に伝えるまでは死ねない、という気持ちって、すごく生きる支えになるだろうから。
そして、そういう謎は、なぜかしらないけど偶然出会うべくして出会うというか、運命じみたものがあるんじゃないかとも思う。知らんけど。
本作を貫くテーマでもう一つ好きなところは、登場人物が次の登場人物へと地動説を「託して」いくことであろう。地動説を受け継いだ3人目の登場人物であるオクジーは次のように語っている。
少々長いが、本質を突いた言葉なので丁寧に引用しよう。
『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。
(中略)
あの石箱に関わった二人共。自分以外に託すって姿勢に希望を見いだしてた。
俺はずっとそれが不思議だった。
「託す」とか「任せる」とか一見 聞こえはいいですけど、
実際、他人が自分の思い通りに受け継ぐなんてわからない。
それどころか反論をされる可能性をある訳で、
だから託すなんて不安でとても希望とは思えない。
で…でも、
実は、
寧ろ反論や訂正をされることが託すことの、
本質というか…
自分の思い通りいかない誤解とか事故とか予想外の存在とか、
それこそ…教徒にとって異端者が。
天動説にとって、
地動説が。
そういう他者が引き起こす捩れが、
現状を前に向かわせる希望なのかもしれない。
–『チ。 ―地球の運動について―』第4巻
この3巻〜4巻にかけては、先述したヨレンタが文字を読み書きできる素晴らしさを「奇蹟」という言葉で表現している。文字は、時代や空間を超越できると。
オクジーのこの言葉は、ヨレンタに文字を習ったことでたどり着いた考えである(だけど、文字を習っただけで、ここまで内省的に考えられるのって凄すぎるよね…)。
在野研究者が研究姿勢やノウハウを寄せ集めた名著「在野研究ビギナーズ—勝手にはじめる研究生活」でも、著者の一人である工藤郁子氏は論文を読む喜びについて、「僕は友達がいる別の世に」というタイトルとともに次のように述べている。
“諸外国の研究者や数世紀前の泰斗と、論文を介してコミュニケーションできるのも好ましい。時空を超えて、同じ研究関心を持っていたらしいと知ると、心震える。人によっては、これこそが研究の醍醐味だという。そして、先人たちの積み重ねのおかげで、「巨人の肩の上」に立ち、一人では到達できないはるか彼方まで見渡せる。だから、何度でも栞のノブを掴む。” –「在野研究ビギナーズ—勝手にはじめる研究生活」
我々研究者は、論文を書くことで、業績を積み、査読を通じて他者の評価を受け、後世に成果を再現可能な形で残すことが義務づけられている。しかしそうした義務であること以上に、後世に自分の意思を託すことができる希望であることを、思い出させてくれた。
もちろんこれは学術に限らない。ヨルシカのn-buna氏と「チ。」作者の魚豊氏との対談でも、文字を使うということ、表現をすることについて、先人からの蓄積であるとして、もっと普遍的な議論がされていて興味深かった。話題が逸れるので、ここでは本の紹介にとどめておくことにしたい。
いろんな人が言うことだけど、研究テーマというものは二つに分けられて、一つは自分がやらなくてもいずれ近いうちに誰かがやるであろうテーマ、もう一つは自分以外がやらなければ少なくとも残り数十年は放置されるであろうテーマである。
私は仕事では前者のような研究もやるけれど、どちらかと言えば好きなのは後者のような研究だ。そういった研究を始めてみると、先行研究はもちろん数十年前の1,2編の論文だけということがざらである。
きっと自分が今調べた結果も、論文にしても次に誰かが真剣に読んでくれるのは早くても数十年後なんだろう。もしかしたら、もっと先の世まで誰にも知られずに図書館の片隅に埋もれてしまうかもしれない。
でもそれでいい。いつか、誰かが必要としてくれたら、その人に自分が先行研究に出会ったときと同じ気持ちを届けることができると信じているから。
この気持ちは私の大好きなブログでも、もっと綺麗な表現で記事にまとめられているので紹介しておこうと思う。
日本の学術界で、基礎研究への予算配分が足りないことは昔から問題にされてきた。科研費の予算拡充も求めるオンライン署名が行われたことも記憶に新しい。
また、「研究成果の社会実装」という錦の御旗のもと、現代の研究者、特に応用に近い分野では、落ち着いて論文を書いたり技術を吟味する時間を与えられずに成果の発表を求められる。 私も日々、職場では「そんな基礎研究にこれ以上こだわるな」という趣旨の圧力をさまざまな形で受け続けている。しかし、好奇心から始まる基礎研究の知見なくして、その応用となる技術は成り立たない。
生態学者であり、南西諸島のウリミバエ根絶に多大な貢献をした故・伊藤嘉昭博士は、かつて「もっとも基礎的なことがもっとも役に立つ」という言葉を残した。防除対象の害虫についての基礎的な知見の解明と蓄積なくして、防除事業を成功に導くことが不可能だったからだ。
現代日本の研究環境を鑑みると、言及すべきは基礎研究の不遇だけにとどまらない。
地動説が異端として扱われ弾圧されたのは遠い昔の話で、そのことだけに目を向ければこの物語は過去の歴史をモチーフにしたフィクションである。
しかし現代でも、人知れず、組織(あるいは社会)にとって都合の悪い真実を曝こうとしている研究者は必ず存在すると思う。そうした人々にとって、本作に登場する様々な名言は救いを与えるのではないか。
現代に置き換えて考えたときに難しいのは、「社会にとって都合の悪い研究」と「陰謀論」の区別が付きづらくなっているところだろう。この点を作者が次作でテーマとしたのもなるほどと頷ける。
自分にはどうしたら両者を区別できるのか、現時点で結論は出せない。
ただ一つ言えるとしたら、その人の好奇心ではないかと思う。
「誰がどうなってもいいから、正しいことを知りたい」と迷いながらも願う気持ちがある限り、人は科学者でいられるのかもしれない。
本作でも、そのような言葉が出てきていたと思う。
最後に。
本作が、自分と同じように、日々、孤独や悩みを抱える研究者(あるいは似た立場の人々)の支えとなることを願います。