朝顔と祖母と、科学に初めて触れた日。

幼い頃のちょっとした思い出と、自身の研究への向き合い方にまつわるちょっとしたお話。

自分が生まれる前から、私の祖母は庭で朝顔を育てるのを毎年の日課としていた。自分もときどき一緒に種まき、間引き・支柱立てやら、夏場の水やりも手伝ったりしていた。

ある年の夏、そのときはまだ幼稚園児だったと思うが、朝顔の花を見ながら何かを祖母から教わって、それがきっかけになって芋づる式に気になったことを質問攻めにしたことがあった。今となっては何を話したのかさっぱり思い出せないが(品種によって花の色がなんで違うか?とか、そんな話題だったような気もするけど…)、あまりにしつこく聞いたので「おまえは理科が好きになるだろうなぁ」と言ってそれきり答えてもらえなくなったことがあった。それが”理科”という言葉を初めて聞いた瞬間だった。自分が気になっていることを真正面から教えてくれる世界がそこにあるのだ!という期待感がものすごかったから、この瞬間は今でも強烈に覚えている(質問をスルーされたのは悲しかったけども)。まぁ兎にも角にも、小学校に入ったら理科というものがあるのだ!と。

そして小・中・高・大学・大学院と進み、確かに科学というものは自分が気になって気になって仕方がない疑問を答えてくれる世界であることを知ったのだが、それと同時に「なんで(どうして)〜なの?」と無邪気に問うことが次第にできなくなってきている自分がいる。

それは、既知の知見があまりにも広く深くて、自分の疑問などきっとすでに解決されているであろうという諦めであったり、それ以上に、研究者として本当に問う価値のある疑問を生み出せているのかという焦りがあるからだと思う。前者は既往研究をくまなく調べ尽くせばよいのだが、後者は考えれば考えるほど既往研究に縛られてしまって、自由でまっさらな疑問から遠のいてしまっていく気がしている。何日も机にずっと向かって原稿を書いているときなどは特に。

今夜みたいに眠れない夜は、子供の頃みたいに何も知識も持たず「なんで(どうして)〜なんだろう?」と疑問ばかりだった感覚を取り戻せたらと、よく思い出す。新しい知識を知ることは楽しいけど、知れば知るほど無邪気に生み出せたはずの疑問が枯れていく。もし過去に遡れるのなら、幼稚園児だった自分に「いいぞいいぞその調子だ! 研究という世界にたどり着くまでは、理解者も話し相手も誰もいないけど、その気持ちだけは絶対に忘れないでいてくれ!」と言い聞かせたいものである。